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最高裁判所第一小法廷 昭和31年(オ)916号 判決 1960年2月04日

上告人 朝倉剛介

被上告人 国

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人弁護士小林武夫、同亀田得治、同石川克二郎の上告理由第一点ないし第三点について。

按ずるに、特定した土地の引渡を目的とする本件訴の如きものにつき、原告(被上告人)たる申請人をして権利の満足を得せしめた所論内容のような仮処分の執行された場合は、仮の履行状態が作り出されているのであり、その当否は本案訴訟の当否にかかつているのであるから、その仮の履行状態及びその状態の継続中に起きた新な事態を本案訴訟の当否の為めの判断の資料に供することはそれ自体論理的矛盾であり、従って本件のように原告(被上告人)が仮処分の執行により特定した土地の引渡を受けた後、該土地が所論のように滅失したとしても裁判所はかかる事実を斟酌することなくして(換言すれば仮処分の執行のなかった状態において請求の当否を判断すべきものと解するを相当とし、これと同趣旨に出でた第一審判決並びにこれを引用した原判決の各判断はいずれも正当である(昭和一三年一二月二〇日大審院第二民事部判決民集一七巻二三号二五〇二頁、昭和八年四月二五日同院第五民事部判決民集一二巻八号七四四頁各参照)。所論はすべて右と相容れない見解を前提とし、種々論説するものであって採るを得ない。

同第四点について。

所論原判示はいささか正確を欠くが、原判文全体を熟読すれば、右は本件土地の埋没前すなわち前示仮処分執行前の状態において上告人は本件土地を国に引渡していなかったことは上告人において明らかに争っていなかったという趣旨をうたっているものと解すべきであり、かかる擬制自白(記録を精査すればこの擬制自白は認められる)に基いて原判決のように判断することは前段説示のとおり毫も妨げないところであるから、原判決には所論の違法ありというを得ない。それ故、所論は採用できない。

同第五点について。

所論の点に関する原判示もいささか明確を欠くうらみなしとしないが、原判決並びにその「相当とし」た第一審判決を通覧すれば、原判決は所論の部分についても、被上告人国の本件土地に対する所有権に基づく妨害排除の主張を是認した趣旨であり、原判決中所論の点はあらずもがなの無用の措辞と認めるを相当とする。従って原判決には所論の違法ありというを得ず、所論は採用し難い。

同第六点について。

しかし、原判決並びにその引用にかかる第一審判決を通読すれば、原判決は所論(二)及び(六)を除くその余の土地についても上告人を不法占有者と認定しており、原判決及び第一審判決の認定した事情に鑑みれば、右土地について上告人を不法占有者と認定した原判決の判断は十分首肯できるから、原判決には所論の違法はなく所論は採用できない。

同第七点について。

しかし、原判決によれば、国が上告人を所論のように差別待遇したことは上告人の立証を以てしては認められないというのであるから、所論違憲の主張はその前提を欠くものであり、原判決が上告人の違憲の主張を排斥した結論は正当である。所論が論難する原判示はあらずもがなの蛇足と認めるを相当とする。それ故所論は理由がなく、採用できない。

同第八点について。

しかし、原判決が憲法にいわゆる良心に従わないでなされたという事跡は所論を参酌しつつ本件記録を通覧するも、毫末も認められないから、所論違憲の主張も亦その前提を欠き、採るを得ないものとする。

よって、民訴四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で主文のとおり判決する。

(裁判官 下飯坂潤夫 斎藤悠輔 入江俊郎 高木常七)

上告理由

第一点原判決は非判決を適法な判決であるとした不法の判決である。―民事訴訟法違反。

原判決は「第一審判決が上告人にその収去及び明渡しを命ずる同判決別紙目録表示の建物は存在せず同判決主文掲記の土地は既に被上告人(原告、被控訴人、国)の手中にあって上告人がこれを占有する可能性すらない、行為の対象が存在しなければこれを対象とする行為の成立し得ないことはいうまでもなく、同判決は客観的に不可能な事項を命ずるものに外ならない。このような不合理は国の制度としての民事訴訟法の基礎理念に照しその存立の許されないことは当然であって同判決は取消されなければならない」という上告人の主張には全然とり合わず、このような第一審判決を相当であるとした。同判決主文の趣旨は「上告人は被上告人に対し主文掲記の土地上の判決別紙目録表示の建物を収去してその土地を明渡すべし」というのであるが、本件訴訟が提起される以前昭和二十九年九月二十四日本件第一審裁判所である盛岡地方裁判所花巻支部において「上告人は被上告人に対し同年同月三十日限り右表示と同一建物を収去して右掲記と同一土地を明渡さねばならない」という趣旨の裁判(仮処分決定)があり、同年十月三日右建物は収去され、右土地は明渡されて被上告人経営の堰堤湛水敷地として水面下二百余米の深底と化している。このことは紛れもない事実であって、前記判決主文において上告人が命ぜられる特定物に

対する為特定行が不可能であることはいうまでもない。

第一審判決が上告人に不可能事の履行を要求するものであることは明らかであるが、このことはいうまでもなく、不可能を要求する主文の趣旨自体に基くのである。第一審判決主文の趣旨は特定の客観的行為を命ずることにあり、決して想像上、行為の思惟を命ずるものでもなく、また何等かの法律上の効果の観念を強制するものでないことは争う余地はないのであって、こういう判決が民事訴訟法の規走の解釈如何によって、または判決形式に対する理解如何によって、或は如上不可能事を招来した因由に対する法律上の観念の仕方如何によって履行可能な判決になり得るという理由はあり得ないのである。

そうして第一審判決が訴訟法的形式において、そのいわゆる給付判決に該当するものであることは明らかであるが、元来給付判決は特定人に特定の履行義務を負わせる国の主権の作用に外ならないから給付判決は履行不能を目的としては成立しないのである。いうまでもなく国の主権は合理由に行使されるものとしてのみ実在するからである。もし履行不能を目的とする給付判決があるとすれば、それは民事訴訟法所定の形式が誤用せられた結果の表現的現象に過ぎず正当な国の主権の作用であるとすることはできない、いわば判決に非ざる判決であって、これを非判決というならば前記第一審判決はまさにこの非判決である。

非判決はその形式上の首尾をなす理由の論理如何にかかわらず判決として存置すべきものではないから、これは取り消されなければならないのに、原判決は第一審判決を適法なりとしたが性質上これを適法なりとする法律上の理由はあり得べきことではないのであるから、これ亦不法の判決として破棄されなければならないのである。

第二点原判決は「訴の利益」を欠く本訴に、あえて訴権を認めた不法の判決である。―民事訴訟法違反。

前叙第一点に明らかな通り、本訴提起当時、本訴請求が認容されることによって解決されるべき法律上の紛争事実は存在しなかったのであり、本訴請求の趣旨によって解決すべき紛争事態を解決するために、本訴請求について裁判を受くべき利益も必要なかったのである。上告人は第一審口頭弁論開始当初これを指適し、更にまた原審弁論開始にあたってもこのことを主張しているのである。このことは、元来当事者の申立て如何にかかわらず職権を以ても調査すべき「訴の利益」の存否に関するものでもあるにもかかわらず、原判決は、第一審判決もそうであったように、これありとするのか、これなしとするのか、あえて上告人の主張に対する判断を曖昧にするいうまでもなく、しかし、「訴の利益」の存否は訴権の成否である。原判決は「訴の利益」の実体を議論の綾で被い隠くし、その錯覚を利用して、あえて訴権を捏造しているのである。訴権なき訴を理由ある訴であるかのように見せかけようとすれば、結局その理由自体が如何に支離滅裂たらざるを得ないかは後に指摘する数個の原判決理由に対する民事訴訟法上の疑点からだけでも極めて明らかなのであって、元来、本訴「訴の利益」はそのように観念的な思考の技術によって創造されるものではないのである。それにもかかわらず本訴請求を理由ありとする第一審判決を相当とした原判決は明かに不法に訴権を認めた裁判であって、到底破棄を免れざるものといわねばならない。

第三点原判決は訴の訴訟物はその訴により定まるという民事訴訟の根本原則を踰越してしまっている不法の判決である。―民事訴訟法違反

原判決は、上告人は(四)本件建物は仮処分の執行に因り既に収去されているから本訴請求は理由がないと主張するから案ずるに、この点に関する当裁判所の判断も第一審判決のそれと同じであるからとてその理由記載を引用している。しかし上告人は第一審弁論開始以来「現に建物は収去されて居り土地は明渡されているから本訴請求は理由はない」と主張しているのであるが、本訴は仮処分手続きの続審でもなければ、また仮処分の追認を求める訴訟でもないのであるから本件訴訟に仮処分の観念など持ち込む余地はないことを指摘し、「仮処分の法律的性質を根拠に、現に建物は収去されて居らず土地は明渡されていないと観念すべきだという被上告人の主張」を争っているのであって、原判決の右摘録のように「仮処分の執行に因り」などと主張したことは曽っつてない。それにもかかわらず不当にも被上告人(原告)第一審裁判所及び原裁判所は本理由において明らかにするように、本訴当事者たる上告人(被告)の訴訟上の地位を全く無視して、本件訴訟を、第一審を担当した裁判所である盛岡地方裁判所花巻支部昭和二九年(ヨ)第一二号仮処分申請事件の裁判の効果を確認する訴訟として取扱い、上告人の主張の趣旨すらも、このような取扱いに便宜なように、前記の如く独善的に焼き直してしまっているのである。

さて茲に原判決の引用する第一審判決の理由記載というのは「被告は原告主張のごとく被告が本件土地を不法に占有していたとしても現に妨害は除去されているのだから原原の本訴妨害排除の請求権は消滅した旨主張するところ本件各土地上の建物が本件の訴提起前に当裁判所昭和二十九年(ヨ)第一二号仮処分命令の執行により収去されたことは当事者間に争がなく右仮処分命令の内容が建物の収去を命じたものであったことは明らかである、ところでこの種仮処分命令は本案が確定するでの間被保全権利たる妨害排除請求権の実現遅延により生ずる危険を防止するため申請人に対し仮定的にその履行状態を付与したもので右権利の有無を左右するものではない、従って右被保全権利を訴訟物とする本案訴訟にあっては右仮処分命令による執行がなされたか否かに関係なく審理判決をするを相当と解するのでこれに反する被告の見解は採用しない」というものである。

ところが、上告人の右説示中の主張が、この説示にいわゆる「仮定的に付与された履行状態」として実在する実体法上の権利の存否の事実に関するものであることは明らかであろう。これは見解ではない。それにもかかわらず上告人の主張をひとつの見解の如く取扱ってこれを採用しない理由を述べる本説示は、卑俗な譬諭を用うれば「この水は徳利に入っている、徳利は酒を容れるものである、だからこの水は酒である」といった式の奇怪な論法によって、茲に争われている請求権の消滅原因たる事実を齎らした法律手続の本訴に対する訴訟法的影響を如何に観念するかを述べているのに過ぎないのである。

しかも、そのいわゆる「この種仮処分」とは果して前記(ヨ)第十二号仮処分をいうのであるか、もしそうであるとしたらその仮処分は目下上告裁判所においてその不適法が争われて居り「この種仮処分」は国の不法行為」に化し去るやも判らぬ描象的な不安定な観念にしか過ぎず、且「従って右被保全権利を訴訟物とする本案訴訟」ともあるが、本件訴が果してそこにいう本案訴訟であるというのか否か曖昧である。一体この説示は本訴についての判断として、かくいうのであるか、或は本訴とは関係のあるものの如く、ないものの如く一般的な描象議論を持ち出したものかそれさえ判然としない上に、論旨夫自体如何にも奇妙な口辞にしか過ぎないのであって、結局それは具体的な本訴訴訟物の存否に関する主張に対し到底その判断の理由たる意味を成さないのである。

原判決は、前記のように上告人の主張の趣旨を焼き直してこのような説示を記載した第一審判決理由を引用したが、そのこれによって第一審判決の判断と同じであることを示す原判決の判断の趣旨は、まさに、「本件訟訴は前記(ヨ)第一二号仮処分申請事件の本案訴訟を提起する意図を以って提起された訴であるから、その訴訟物の存否如何にかかわらず、右仮処分申請事件における申請人の被保全権利に関する主張についての本訴の審理判決するを相当とする」というところにあるといわざるを得ないのである。かくて、上告人は、原裁判所に対して、第一審裁判所は被上告人(原告)が本訴を提起した経緯を理由として前記(ヨ)第一二号仮処分申請事件における申請物を回想してこれについて審理判決したものであることを指摘し、第一審判決の違法を主張したのであるが、それにもかかわらず原裁判も亦これをそのまま踏襲しているのであり、原判決はいうまでもなく前記仮処分申請事件における申請事由中被保全権利に関する申請人(被上告人)の主張事実につき審理判決しているものに外ならないのであって、訴の訴訟物はその訴により定まるという民事訴訟法の根本原則を踰越してしまっているのである。

第四点原判決はその事実認定において民事訴訟法第一四〇条第二五七条第一八五条に違反し、結局理由を附せぬ違法がある。

本訴請求の理由は「右のように上告人が建物収去期限を過ぎても訴状別紙(一)建物目録記載(15)の建物を収去せずこれを使用していること及び、同別紙(一)建物目録の(1) 至(14)(16)及び(17)の建物を不法に建築しこれを使用していることは、いずれも被上告人国の同別紙(二)土地目録記載の土地に対する所有権を侵害するものであるから、これが妨害排除を求めるため本訴に及ぶ」というにある。

右訴状に基く被上告人の主張に対し、上告人は、本訴審理開始当初答弁書基き陳述した抗弁事実において「本訴掲起の日(昭和二十九年十月十九日)に先立ち同月三日訴状別紙(一)建物目録記載の建物は収去され、同別紙(二)土地目録記載の土地は明渡されて原告(被上告人・被控訴人)経営堰堤湛敷地と化しており、原告が土地所有権妨害を主張している事実は現に継続していないので本訴請求権は存在しない」ことを明らかにしているのである。

ところが、原判決は右土地を判決別紙目録(一)乃至(七)に表示した上、その理由において、昭和十八年六月国が(二)及び(六)の土地を上告人から、爾余の土地を上告人以外の者からそれぞれ買受けたこと、(二)及び(六)の地上建物九棟は移転補償金を受けて同年十二月九日までには建物収去土地引渡しをなすべきことになっていたこと、右期限後も建物は収去されないでいる内昭和十九年十二月十六日一部を除き焼失したこと、昭和二十年四月以降において(この点は上告人は当初から焼失直後であると争っている)(二)(六)の土地上に本件建物中八棟を爾余の地上に爾余の八棟を建設したことは当事者間に争いがないとしてこれを認定した上、この土地が昭和十六年内務省が田瀬堰堤の建設に着手しその敷地の一部として買収したものであり、前示の通り昭和十八年補償金を支払ったことを説示した後「今日(原審口頭弁論終結は昭和三十一年六月二十六日)なお土地の引渡しをしていない」ことは明らかに争わないところであるから、これを自白したものとみなすべきであるというのである。

しかし上告人としては、こういう判断はまことに困るという以外にいいようがないのである。或は上告人の主張として「上告人は土地の引渡しをした」という表現は記録されていないかも知れない。だからといって、原審裁判官が、上告人はそういういい方をしないから、そういういい方でいわれていることを争ったことにならぬのだといわれるのであれば、上告人はもはや何をかいわん、天を仰いて嘆息するのみである。しかし、「なお土地の引渡しをしない」といういい方が現わす事実と、目的格の側から受身の形でいった「なお土地は引渡されていない」という事実と一体何処が違うのであるか。それとも「引渡す」という用語と「明渡す」という用語とは特に別異の法律的趣旨をいうものとして用いられなければならないのか。真逆、かりにも判決においてそれまで言葉の使い分けがなされているわけでもあるまい。それならば前述のように、そのことは「明らかに争わない」どころか、本訴成否の根本的事由として当初より争われているところである。

従ってこのような原判決説示の疑制自白による事実の判断虚無のものといわざるを得ず、外に上告人がなお土地を占有しているという事実の認定はない。(尤も、そういう事実はないが、あることになっていると考えるべきであるという迷妄の押しつけがなされていることは前述の通りであるが。)

結局原判決は、本件給付の訴の訴訟物を成す係争事実につき何も認定するところはなく、かくてその主文を理由あらしめる根拠を示さないのであって、まことに奇妙な判決であるが、原判決には理由が附してないのである。

第五点原判決は当事者の申立てざる事項について判決した違法がある。―民事訴訟法第一八六条違反。

原判決は原判決添付別紙目録表示の本件土地中(二)及び(六)の土地について上告人は昭和十八年十二月中国に対し昭和十九年六月十日までにはこの土地に建設してある建物九棟を収去して敷地を明渡す旨承諾し移転等、補償金を受取ったものであることが認められるから、上告人は国に対し前示約旨に従い明渡し義務があると判決している。

これは、明らかに国と上告人との間の約定に基く履行義務を認定するものである。

しかし、原告(被上告人・被控訴人)が訴状に基き陳述した

請求原因及び原判決が引用した第一審判決摘示の事実は、上告人が本件土地(原判決のごとく(二)(六)と爾余とを区別しない)上に建物を所有してこれを使用していることは、いずれも国の本件土地に対する所有権を侵害するものであるからこれが妨害の排除の請求を求めるため本訴に及んだということである。

成程原告(同前)は原判決が認定したような前表示(二)(六)の土地の取得移転約定の成立の事実は主張してはいるが、しかし、これは本件土地使用が不法占拠といわれることの経緯を明らかにするための説明であって、訴状記載中「建物収去・土地明渡しの義務を履行しないのみか云々」とは昭和十九年十二月当時の事情にかかわるものであることは一読疑いを容れないところである。

いうまでも約定は一たん成立すれば、義務者の履行がない限り永遠にその効力が存続するというものではない。履行の目的が達成せられれば消滅することは当然であるし、そうでなくても時間的経過の過程には事情変更ということもあろうし、また時効ということもある。(元来、本訴は私権の行使を目的とするということが名目とされているのである、このような約定が本件請求の法律原因として主張されているなら上告人は当然時効を援用しているのである。)本件当事者は不幸にして、共に右約定成立未曽有の法秩序の混乱期に遭し、統治権の麻痺すら経験したのである。このような混乱期を経過すること十余年にして提起する本件において、尚法律の概念を弄び、前記約旨の履行義務の存続を主張し、これに基いて本訴請求をなすほど、当事者たる国は法匪(法痴?)ではない。原判決認旨に従う明渡し義務のごときは当事者のいずれもが問題にしていないのであって、全く当事者の申立てない事項である。

それにもかかわらず、原判決は、故意に、独り合点して前述のような事項を判決しているのである。しかも本訴請求にかかわる土地中前表示(二)(六)の土地に関しては、この認定事項が、原判決の正当とする第一審判決主文に対して表見的には首尾の整う唯一の理由となっているのである、

第六点原判決は理由に齟齬ある違法の判決である。

原判決は「前記(二)及び(六)の土地は前示約旨に従い、爾余は不法占拠者として明渡し義務がある」と判決しているが、この爾余の土地については、昭和十八年六月十七日訴外内館景治外五名からそれぞれ国が買受けたものである事実、昭和十九年十二月十六日(二)(六)地上より収去しなかった建物が焼失したのでこれを再築する際(この時期については前述した通り、上告人は焼失後直ちにと主張しているのであるが、原判決は、当事者間に争いがないとして、昭和二十年四月以降においてと認定している)、本件建物中八棟を爾余の地上に建設した事実を認定しただけである。

しかし、不法占拠者として土地の明渡し義務を負うのは、その土地を不法に占有するという事実に基くのであって、土地所有者が何人からその所有権を取得したか、占有の方法が建物取得であったか否かということは、何も土地占有の法律関係を明らかにするものでないから、上告人を不法占拠者と判断するためには、不法占有の事実が明らかにされなければならぬことはいうまでもないであろう。

それにもかかわらず原判決は不法占有の事実を認定しない。もっともこのことについては、原判決は「上告人は国が(一)別紙目録記載の土地に対する上告人の使用を黙認したと主張するから案ずるに、この点に関する当裁判所の判断も第一審判決のそれと同じであるからここに第一審判決の理由記載を引用する」とはいっているのであるが、その第一審判決理由も本件土地占有の事実については、本件各土地上に旧建物一棟新築建物十六棟を所有していること、昭和十九年十二月旧建物(中一棟を残し)焼失後において(二)(六)の土地は勿論その他の本件土地を上告人に使用させる黙示的意志表示がなかったと解すべきこを認定しているにすぎない。しかし第一審並びに原審口頭弁論において、上告人は(二)(六)の土地は勿論爾余の土地も、この建物建設の際はじめてこの土地を使用占有したものではなく、従前から材木置場その他の目的のために住居並びに生業上の附属用地として旧所有者から借受け(二)(六)地上に建物を所有すると共にその周囲のいわば屋敷まわりの敷地として、従前より継続してこれを占有使用していたものである事実を説明しているのである。かくて占有の事実については、(二)(六)の土地が国が上告人から取得した土地であり、焼残りの一棟がそのどちらかの地上に残ったにしろ、本件建物建設の際、いずれも従前より国有地を占有するものであるという点において、占有の法律関係に(二)(六)の土地と爾余の土地とが区別される理由はないのである。しかも原判決は(二)(六)の土地について態々被上告人の主張する不法占有の事実には判断を示さず、そうして爾余の土地については一足跳びに上告人を不法占拠者だと断ずるのである。このことはいうまでもなく故意に本件土地占有に関する法律事実の認定を回避していることを物語っているのである。一体、本件土地が国有地となった後、尚この土地を上告人が占有使用していたという事態は、曠古の大戦が齎たらした未曽有の政治、経済、社会上の変態的条件の下に、異常な村落秩序を形成した社会的現象の一端に外ならないのであって、本件国有地占有の法律状態は強いていえば、当時の国の土地管行政の反射現象という外はないのである。従って、こういう異常事態とは無関係の法律秩序を前提としてその規範性が理解さるべき民法上の法律概念をそのまま持ち出して、このような占有事情を法律的に判断することは全く意味がなく、本件占有事情を直視して、これを法律的に評価しようとすれば、寧ろこれに適用すべき法規範は何であるかを探究すべき相当困難な問題に突き当ることは必然であるから、原裁判所が本件土地の占有の実体関係をあえて認定外に押し遣ったもの、後述の如き本件判決の目的上、もっともなことであると想像はされるが、しかし、だからといって、原判決が不法占拠といわれる事実の認定を欠除していることにかわりはないのである。

かくて原判決は、本件土地中(二)(六)を除く爾余の土地については、不法占拠の事実を認定せずして上告人に不法占拠者の義務ありと判決するものであって、原判決には、明らかに理由に齟齬ある違法があるといわざるを得ないのである。

第七点原判決は憲法違反を目的とする本訴請求を認容する第一審判決を相当とした憲法違反の判決である。―憲法第一四条一項違反。

原判決は、上告人が憲法第一四条違反を主張する事実についてその趣旨を都合のいいように焼き直して、上告人が主張もしない差別待遇の事実を持ち出して、これが差別待遇に当らないといって上告人の主張を斥けているが、原判決は上告人の申立てた事項を判断しなかったのである。

原判決は、上告人に対する国の補償金の算定に差別待遇があるか否かを問題にしているのであるが、本訴においては、上告人はこれを憲法違反と主張しているのではない。昭和三十一年四月十九日の原審口頭弁論期日において、これに基き陳述した準備書面第二、本訴の不適法二項の記載に明瞭に述べている通り、上告人は「国が上告人に対してのみ本訴請求に出たことが憲法第一四条違反である」といっているのである。主張事実を繰返せば、「昭和十六年国は田瀬堰堤構築を計画し、工事施行を決定し、その敷地取得のため昭和十七年三月、同十八年六月の二回に亘り、補償が決定され昭和十九年六月までに田瀬部落の全居住者との間に土地所有権移転の手続が行われ、移転等に対する補償金が支払われたものであって、本訴請求原因中の国の本件土地所有権取得、明渡しの約束の成立は、右敷地居住者の一人とて上告人に対してとられた右手続によるものに外ならない。しかしこの頃から漸く顕著となった国力衰退・統一意思の分裂及び戦後の行政の麻痺に伴い同年十一月より戦後暫らくの間右国の事業は自然放棄の状態となり、一方右各その土地所有権を国に移転し移転補償金の支払いを受けた田瀬部落住民中その約六十%を越える者等が国情の影響を受けて従前通り居住を続け昭和二十二年頃よりは他所より入落居住する者もあり、また国有地たる部落内において旧建物を修復する者もあり、新たに建物を取得する者もあり、このようにして追々に村落としての体裁が復興形成され、新らしい秩序ができ上りつつあった折柄昭和二十五年国は田瀬堰堤工事再開を決定したのであるが、堰堤敷地たる田瀬部落の土地の占有を完全にその手中に納めるため、部落現居住者の退去移転を求めなければならなかった。この際、しかし、国は部落居住者が戦時中補償手続終了後も尚その居住を継続しなければならなかった事情並びに戦後の社会経済事情の激変に徴し、戦時中完了している補償協定手続に基く法律関係を主張して現居住者に退去を強要することは妥当でないとし、事業再開に際し更に居住者全部に対し現状において移転補償をなし、その補償協定に基いて居住者の移転を実現せしめるという措置を決定し、当時上告人をも含む田瀬部落現住者並びに同部落において耕作を行う者全部に対し、従前の法律関係を問わず再補償を行う旨発表したのである。そうして従前からの居住者七十五名については、国は上告人を除く全部との間に補償協定を成立せしめてこれに基き夫々より各その居住土地の引渡しを受けたのである。ところが上告人に対しては補償業務の適正な遂行を怠り、そのため補償協定が未だその成立に至らないので、国は不当にもひとり上告人に対しては補償協議によらず強制手段を以てその移転実現を図りよって本訴請求に及んだのである」というのであって、上告人がこれを憲法第一四条第一項に違反するという趣旨は、いうまでもなく、(一)昭和二十六年当時国から移転、土地明渡しを要求せられる者は上告人を含む田瀬部落全居住者であり、(二)戦時中協定した約旨の不履行、爾後の無権限による国有地使用に基く国と居住者との法律関係は上告人も他の居住者もすべて同一であるが、(三)上告人を除く居住者全部に対する明渡し要求は、その居住地を公共の用に供するという行政目的の実現として扱われているのに、(四)上告人に対する明渡し要求だけは、国の私法上の権利の行使という法目的の実現として扱われているという点にあるのである。

原判決は前記主張事実中の「上告人に対しては補償業務の適正な遂行を怠りそのため補償協定が未だその成立に至らない」という点をとらえて、国の補償金支出の事情がどうの、国の補償額の算定の当否がこうのといい、はてはこの補償協定不成立を上告人の責に転嫁するような説示をしているが、それはどこまでも、前記行政目的の実現として扱う手続上の紛争に過ぎないのであって、補償の話し合いがつかないからといって、前記国と上告人との間の法律関係が他の居住者のそれと異って来るというものではない。原判決の説示する補償手続上の紛争事実は凡そその真相とは隔っているが、その非難がましい説示にもかかわらず、そのいうところは、国が一方的に定めた額では、上告人はその承諾を拒否するという一事に過ぎまい。国に如何る思惑があるにしろ、上告人には国が一方的に決めて押しつける補償金はそのまま受取らねばならないという義務はないのだから、国として上告人の不従順が如何に気に入らぬからといって、部落居住者全部について同一の法律関係にある土地の明渡しが公共の用に供する目的で要求されているのに、ただ一人上告人についてだけは、これを国の私権行使の目的のものにかえることが許される理由はないのである。

憲法第一四条一項はすべて国民は法の下に平等であって差別されないことを宣言しているが、国民が国からどう扱われるかに対して何等責任の主体たり得ない場合に、国が一方的に差別をつけようとすることを排斥することが本条の眼目であるから「差別されない」とは勿論国家権力による差別的取扱いの意味で、すべて国家機関がその事実的行動によって差別することをも含むことは当然であって、本件訴訟提起も国の行動に外ならないから、国が本訴請求に出たことは憲法第一四条一項に違反するのである。それにもかかわらず前記のように上告人のこのような主張には判断を加えずにして、この憲法違反を目的とする本訴請求を適法なりとする第一審判決を相当とする原判決は、これまた憲法第一四条一項に違反する判決たるを免れないのである。

第八点原判決は、良心に従わず憲法及び法律の拘束を無視した原審裁判官等の職権行使の所産に過ぎない。―憲法第七六条三項違反。

原判決な上告人の困惑と費用とにおいて被上告人の観念を満足せしめる以上のものでもなければ以下のものでもない。しかも原判決理由が前叙上告理由各点にその訴訟法違反が指摘されるような不合理極まるものであって見れば、原判決は到底、本訴請求の当否を審理するために通常行われると考えられる裁判の判決であるとはいい得ないであろう。原料決は、判決のための判決であるとするより仕方がないのであるが、次に述べる本件訴訟提起の経緯を見ると、本件において原判決が作られたことは必ずしも偶然ではないことを思い知らされるのである。

本件訴訟提起の経緯

既に理由第七において国と上告人との本件法律関係発生についてその経過を述べたが、昭和二十五年に至り田瀬堰堤湛水工事再開が決定され、建設省関係官と更生会(水没部落居住者全員を会員とする更生協議団体)役員との間で内談が取り交わされた後同会総会席上で関係官より、再補償が決定されたことを、公表され且各人の受くべき補償額に大体の目安がつく程度の補償基準が告げられたのである。かくて再補償の協議がはじまったのであるが、当初建設省かち部落在住者各自へ夫々補償金額を記載した承諾書が渡され、これを承諾調印の上届け出るよう求められたのである。昭和二十七年三月はじめて上告人にもその調印が要求されてきたが、示された金額は百九十七万八千百八十九円(外に新たに土地収用法に従って収用を受けた土地に対する補償金として約三十万円あり)に過ぎず、先に示された基準により自ら試みた算定額には遠く及ばず上告人の生活規模からは問題にならぬ額であったので不審を抱きその内訳明細を求めたところ、移築すべき現存の建物が算定基準とされて居らず、戦時中焼失して現存しないものが基準として評価されている始末なので明らかに事務上の手違いがあると思い上告人は調印に代えて調査訂正方を申入れたのである。それとはまた別に実際上、建設省の承認を得た予定地へ移転するにはどうしても道路が必要であり、また戦前は個人でなし得た生業上必須の動力源たる配電施設も今は個人の力で賄い得べきものではないばかりか、移転先の整地の費用だけでも二百万円の支出を要するのである。それで上告人は移転実施については道路開設、配電施設の施行方を希望し、その完了次第移転に着手する旨を申入れたところ、当時協議交渉に当った建設省用地官赤阪益蔵は右申入れを承認したのである。しかし前記補償金額の査定については係官は何としても再調査の請願に応ぜず、挙句は昭和十八年六月現在の状態で補償するのである、現存しない当時の物件によって補償するのは上告人に対する特別の恩恵であるとて調印を迫るのである。しかし昭和二十二年以降既買収移転跡国有地へ入植した開拓住民はいずれも移転、離作補償を受けて居り、昭和二十四年無断買収移転跡国有地に建てられた青年会公民館も移転補償を受け、上告人の場合と非常に似通った事情であるが、昭和二十三年秋のアイオン台風の被害で戦時中、移転補償金の支払は受けたが未だ移転しなかった家屋が流失し、そのため直ちに買収地へ無断建築された家屋についても移転補償金が算定されているのであって、その他上告人の知る限り、戦時入居したものも戦後建増ししたものも、また新たに家屋を建築取得したものもすべて昭和二十六年現在の状況について、補償金が算定されているのである。従って上告人は何故に自分だけが特別扱いされるのか、当局の執務上の基準はどうなっているのか不審が晴れず、これについて納得のゆく説明と公明な取扱いとを希望し歎願していたのである。ところは係官は徒らに前記承諾書に調印を求めることに急で、上告人の希望歎願は全然とり合わず、終には「上告人はダム工事で儲けている筈だから補償金はこれでいいのだ」といい、あるいは「もう予算がないから諦めよ」と断念を迫り、あるいは「いずれ何かで埋め合わせするからこれで辛抱して貰い度い」と懐柔策に出で、果ては「別に五十万円やるから協議書に調印してくれ」と申入れる始末である。かくて上告人は係官に対し筋を立てて協議を進めようと求めているのに、係官はただ当初作成した承諾書に調印を要求するのみで協議をしようとせず結局補償の協定は調わずそのまま二年余を経過した。

昭和二十九年六月になると道路も配電線も使へるようになったので、補償は補償として、上告人はともかく移転には着手し、作業機具を移動し、移築作業場を設け整地にとりかかり、費用の捻出できる限り逐次道具類を運搬していたのである。その前、既に他の者は逐次協定が成立し、一、二を除いて殆んど全部が移転を終り上告人は取り残されるに至ったのであるが、同年七月上京し建設省河川局に赴き担当課長に面接して補償協定未成立の事情を告げて再調査を請願し、その願意が聴き届けられたと信じて帰郷し再調査の実施を期待していたところ、同年八月二十一日仙台地方法務局法務事務官福島悦蔵が建設省補償事務関係官阿部章蔵、川瀬正俊、赤坂益蔵外三名と共に上告人宅を訪れ、福島事務官は上告人並びに家族に対し「戦時中補償は既に済んでいる。上告人は国有地を不法に占拠する者である。不法占拠する者に対し国は再補償する必要はない、今回の補償は特に恩恵的なものである。国の与える金員が納得できないというなら法的措置に訴えるばかりだ。そうなれば恩恵的な再補償金は出ないことになるだろう。訴訟をすれば弁護士が喜ぶだけで移転料どころではなく大へんな費用がかかるが、国の方は一銭も要らない。もし出水ということにでもなればその損害に対する責任は上告人が負わなければならない。」等々の言辞を弄して、上告人等にとっては考えも及ばないような意外な法律上の地位に置かれていることを告げた上、同行の関係官等と交々補償承諾書への調印を求めた。この人数で来てこの言葉を聞かされた上告人等は全く恐怖狼狽に陥り、家族の衷訴・立会知人の驚愕、関係官等の慰撫説得等の混乱の中に上告人は茫然として関係官の指示するままに承諾書に調印したのである。後刻ようやく冷静になると共に右調印は到底本心に出たものとすることはできなかったので、上告人は直ちに建設省補償責任官宛右調印は本心に出でたものではなく承諾はしない旨通告したのである。そうすると国間もなく盛岡地方裁判所花巻支部より呼出しがあり審訊を受けた後、本訴請求と全く同じ趣旨の給付行為が命令され、それが執行されたのである。

上告人は、そもそも移転明渡を拒否しているものではないから移転には着手していたのであり、何分必要な経費も思うに委せなかったので移転の進行も進まなかったのであるが、この執行によって現住宅・工場は取壊され、製材は停止せしめられ、用材は逸失器具は破損し、家族同居の従業員共々移転先附近の興禅院という寺院に転がり込んで露を凌がねばならなかったのである。国民の人格が認められていない権力専制国ならいざ知らず今日の我が国において、いくら国でも、こういう処遇は許される筈はないと確信していた上告人は止むなく仮処分異議の申立てをなしたのであるが、同時に申請した本案訴訟提起命令を受けて、国は本訴を提起したのである。

ところが本案訴訟として提起された訟は、本訴給付の訴であったから、上告人は、これは訴の方式を間違えているのではないかと思い、第一審口頭弁論においてその開始当初以来屡々訴を変更すべきではないかを申し入れて来たのであるが、前記仮処分申請の理由中、上告人を「被告として建物収去・土地明渡請求の訴を提起するため準備中である」と述べていることに何かの関連があるものの如く原告(被上告人・被控訴人)は何としても本訴請求の趣旨を固守しているのである。

如上経緯からでも明らかでもあるように、本件明渡に関する紛議の実体は上来再三引き合いに出された(ヨ)第一、二号仮処分申請事件の決定による断行処分の当否である。元来この断行処分は上告人としては、憲法上並びに訴訟法上仮処分として許されるものではないと確信しているのであるが、申請人たる被上告人は、その手続を形式上適式化すことによってその不法を糊塗しようとするものであって、本訴はそのために、棄却されないことを目的とし提起されたのである。

第一審判決を支持する原判決がこの目的に適うものであることは何人の眼にも明らかであろう。そうして、本訴請求が、民事訴訟法に従って審理されたなら必然請求棄却の運命を免れ得ないものであることも、これまた何人の眼にも明らであろう。

多くをいうまでもなく、原審裁判官等は、被上告人の前記仮処分の不法を糊塗しようとする意図に奉仕するため本件争訟を裁判したものであることは覆い得べくもないのであって、原審裁判等のこれに出たる心意が如何なるものであるかは知らないが、本件裁判においては、少くとも当事者たる上告人の人格が全く無視し去られていることは否定できないのである。

憲法第七六条三項にはすべて裁判官はその良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される。とある。その解釈上の論議を俟つまでもなく、その文字通りの意味において、原審裁判官等による本件裁判は、これに違背する職権行使たるに外ならないであろう。すなわち原判決は原審裁判官等の憲法第七六条三項に違反する職権行使の所産であって到底判決として存立を許されないものである。

以上

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